明智光秀が織田信長を討ち取った「本能寺の変」
歴史を大きく変えたターニングポイントでもあり、「もしも本能寺の変が起こらなかったら? 光秀が失敗していたら?」という妄想も止まりません。
なんなら明智光秀も「自分が信長公を討ち取らなかったら?」と悩んだことがあったかもしれませんよね。
ざっと考えただけでも、現在まで続く日本の在り方まで変わった気がします。
ということで、今回は豊臣秀吉や徳川家康の天下取りにも繋がっていった本能寺の変のIFを追ってみます。
もしも明智光秀による本能寺の変が起こらなかったら? 失敗していたら?
本能寺の変が起こらず(もしくは光秀が失敗)、信長が生き残っていたら下記の流れが考えられます。
- 織田信長の天下取りが早まった
- 足利家を傀儡としたまま織田政権が続いた可能性が高い
- 織田信忠が信長の跡を継いだ
- 豊臣秀吉・徳川家康の天下とはならなったかもしれない
- 異教徒弾圧や鎖国とはならずグローバルな日本となっていたかもしれない
織田信長が秀吉のように日本全国を統一していた可能性も高く、信忠が跡を継いだ織田家も盤石だったことでしょう。
秀吉や家康の天下とはならず、重臣としての扱いだったことも予想されます。
織田信長による天下布武が続く
本能寺の変が起こらなかった場合、天下人だった秀吉や家康はどうなったのか?
まずは3人の生没年を見てみましょう。
- 織田信長:1534年生まれ→1582年没(47歳)
- 豊臣秀吉:1537年生まれ→1598年没(61歳)
- 徳川家康:1543年生まれ→1616年没(73歳)
こう見ると、織田信長は60歳くらいまでは生きられたのではないでしょうか。
あと13年あれば、秀吉と家康の力も存分に使い、天下統一が早まったに違いありません。
そして信長は戦国時代において稀有なほどのグローバル思考。
海外展開を進め、鎖国とは真逆状態だったことも考えられます。
信長ならグローバル展開
信長はグローバル展開をしていた可能性も低くありません。
ペリーの黒船来航を待たずに、海外文化との交流を持ったのではないでしょうか。
中国のように植民地化される恐れもありますが、明治維新のような海外文化取入れ、近代化が早まったことも予想されます。
このことから、現代の日本の在り方や位置付けも違ったものになったかもしれませんね。
まとめ
- 日本の歴史はグローバル化していた
- 戦国時代の終焉は早まった
- 秀吉・家康の天下とはならず、織田家の支配が続いた
織田信長が本能寺の変後も生きていれば、このような歴史の変化があったかもしれません。
明智光秀の起こした本能寺の変は、日本の歴史にとってのターニングポイントになった可能性は高そうですね。