- 本能寺の変時に堺にいた徳川家康は三河へ逃げる
- 本能寺の変に付随する追手を避けるため伊賀越えの選択をする
- 徳川家康と別道を選んだ武田梅雪(穴山梅雪)は横死する
- 三河へ帰った徳川家康は明智光秀を討つ準備をするが、羽柴秀吉に先を越される
天下を統一し、太平の世を作った徳川家康。
九死に一生を得るような難局を何度も乗り越えましたが、どこかで家康が死んでしまっていたら、江戸幕府は開かれなかったはずです。
ということは、日本の歴史も大きく変わっていたはず。
そして、難局のひとつが本能寺の変時の伊賀越え。
ここで家康が討ち取られていたらどうなったか?
歴史のターニングポイントを見てみましょう。
本能寺の変の伊賀越えで徳川家康が討ち取られていたら
- 明智光秀を討った豊臣秀吉の天下となる
- 徳川家は8歳の秀康か3歳の秀忠が跡を継ぐ?
- 秀吉との小牧長久手の戦いすら起こらず、徳川家は飲み込まれる?
- 徳川家の天下はこない
嫡男である徳川信康が切腹させられた後とあって、徳川家の跡継ぎ問題は深刻です。
家康が1582年の伊賀越えで討ち取られていたら、8歳の秀康か3歳の秀忠が跡継ぎとなる可能性が高いはず。
家臣団が優秀だとしても、この状態で秀吉とは戦えません。
戦わずして徳川家は秀吉に飲み込まれてしまうでしょう。
関ヶ原の戦いが起こらずに豊臣家の天下が続く
徳川家康不在ということは、徳川家は豊臣五大老に選ばれないでしょう。
選ばれたとしても家康のような剛腕は振るえないはず。
石田三成を中心とした奉行衆により、豊臣秀頼の天下が続いたのではないでしょうか。
では、豊臣秀頼政権はどのような方向性なのか?
これは正直わかりませんが、大野氏の傀儡政権となった可能性があります。
秀頼が聡明でない限り、堕落・腐敗した政権となったではないでしょうか。
大野氏の評価については「無能」「大阪の陣の戦犯」など様々ですが、基本的に優秀という印象はありません。
徳川家康ではなくても、九州から黒田如水(官兵衛)、東北から伊達政宗辺りが勢力拡大し、天下取りに名乗りを上げたかもしれません。
これはこれで、全く別の戦国時代の終焉を迎え、とても興味深い日本史となったかもしれませんね。
まとめ
徳川家康が伊賀越えで討たれていた場合、歴史は大きく変わっていたと考えられます。
豊臣政権を打倒し、江戸幕府を開き、天下泰平の世を築いた家康の存在価値は、戦国時代においてもピカイチと言ってもいいでしょう。
良くも悪くも、深く考えてみたい歴史のIFが徳川家康には溢れています。